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のえる(仮)のなんでもかんそうぶん

札幌市すすきの・大通界隈で(大体)1人で食べ歩きや飲み歩き、読書や日常などのなんでも感想文です。

続・或る営業マンの回想

仕事

msoasis.hatenablog.com

続きです。

 

【第三章】時の黒魔法

勤務時間の話をしよう。

入社時点の支店では、朝9時から始まり夜は遅くても21時までには帰ることができていた。そもそも支店長が早く帰りたい派だった為、私たち下っ端は特に上を気にすることなく自由に振る舞うことができていた。

ところが北海道に来てからは生活リズムが一変することになる。北海道支店は東京本社につぐ人数がおり、以前の支店の数倍人がいた。そしてとにかく皆帰らないのだ。支店長の水上は、正論を振りかざしながら人に厳しさを強要し、自分にはそれを課さないという素晴らしい特技を持っていた。

朝は6時ぐらいから事務所に明かりがつき、夜は未明の2時・3時まで必ず複数人がいるということが常態化していた。WEB勤怠・スケジュール管理システムを高額で導入した上で、みなし残業の範囲内で自動的に退勤になる仕組みになっていたが、単に会社が法令を順守していることの証明の為のみに存在していたシステムだった。

私は、というより営業はというと、4つの理由により早く帰れない日々が続いた。

まず一つ目は資料作成だ。北海道支店はとにかく会議が多く、そして長い。半期に一度の期末会議。月に一度の月例営業会議。週に一度の営業会議。社長や支店長の気まぐれでランダムに発生する個別面談。また、販売子会社を交えた戦略会議。他部門との横断会議などがある。すべて身内の身内による身内の為の会議だ。短いもので1時間から長いもので8時間かかる会議まで様々だが、そのすべてに資料作成が求められるのだ。

営業会議などはまだ楽な方だ。発表内容はそれほど変わらないため、テンプレートを作って社内データベースから数字を抜き出して、都度の進捗状況や所感を書き込めばいい。(それでも相応の時間はかかるが)

ランダム面談や戦略会議、横断会議は厄介だ。突然声をかけられ日程を伝えられる。少ない日数で求められたテーマに沿って作成するのだが、もともと関与していない部分も多く有り、まとめるのに時間がかかる。

下手なものを作ってはまた罵倒される。この恐怖心から資料作りに没頭すると、今度は顧客から怒られる。それはいただけないので営業活動をしっかり行う。必然的に資料作成の時間は通常勤務時間外に取らざるをえない。

日付が変わったくらいに一緒に資料作成をしていた若い高橋が言った。「これってなんの意味があるんですか?いちいちパワーポイントとかで作る必要あります?全然寝てないし、集中力続かなくてさっぱり進まないんですけど。」彼も私同様消耗しきっていた。「俺も意味がわからない。明日支店長にツッコミ入れてみるわ。ちょっと辛すぎるよな。」確かこんなことを返した記憶がある。

翌朝、ほぼ徹夜明けで支店長に直談判した。「しんどいのはわかるけど全国でやってるんだからしょうがないしょ。資料無いと俺も把握できないから困るし。もっと効率良くやったら?」

その10日後、高橋は会社を辞めた。

 

二つ目は展示会という名の拘束椅子だ。イベントホールにいろいろなメーカーや商社が商品を持ち寄り、広く自社製品を広めようという企画。販売店が主催、共催していることも多く、エンドユーザーを招待しているケースも多いため、不参加は許されない。

そしてほぼ例外なく土日祝日に開催される。その結果、一年のうちのほぼ6ヶ月、つまり半年分の休日が無くなることになる。そして代休など取れるわけも無い。

この会社ではイベントの企画立案・展示設営に至るまですべて営業がやらなければならなかったので、少なくとも平日丸一日分の時間を準備に当てて、土日に展示会参加、撤収をしていた。場合によっては打ち上げもある。

大きなメーカーは、展示会専門の部隊がいて、全国各地を飛び回ることができるため、現地スタッフはお休みである。

なんとか皆の負担を軽くしようと一度経費試算などをした上で、支店長に専門部隊の設置を具申した事があるが、出てきた答えは「今まで通りでいいっしょ。教育とかしないといけないし金かかるし。なんかミスったら誰が責任取るの?」と言われたので「そったらしょぼい責任俺がとりますよ!」と言ってみたがその件がその後日の目をみることはなかった。

 

三つ目は距離の壁だ。道東担当のくだりは【第一章】で述べたが、これもなかなかきつい。北海道は広いのだ。移動だけでも大変に辛い。

例えば札幌〜帯広なら車で片道2時間半、札幌〜釧路なら片道5時間半、札幌〜北見なら片道4時間といった具合である。

参考までに札幌〜稚内であれば片道6時間、札幌〜函館であれば4時間半かかる。

営業は社有車を貸与され、公共交通機関を使用することは基本禁じられていたため、雪が降ろうが嵐になろうが車移動だった。

ちなみに冬場天候が荒れた場合、所要時間は倍になるケースも多々有る。

つまり、仮に釧路で勤務時間である夕方の17時半まで営業活動をし、札幌に帰るとなれば23時になるのである。途中で天候が荒れれば朝方の4時くらいか。

日帰りで、もし行くとなれば朝の3時に出て到着が8時半、17時半に出て23時になる。(稀にクレームなど一刻の猶予も無い場合に日帰りもあった。)

運転、特に冬場の運転は気を使うし想像以上に疲労がたまる。夜間であれば危険も増すし、居眠りなどの可能性も否定はできない。

移動日、という日を認めてくれないかと支店長に検討を促した事がある。

「みんなやってることをなんでウチだけできないなんて事が言えるわけ?居眠り云々は自己管理能力よ。事故は気をつければいいっしょ。安全運転。あと自己責任。あれ上手いこと言っちゃったな。ははは。」

大人になってから人を殴りたいと思ったのはこの時が初めてだった。

後日、この件について社長はこう言っていたそうだ。「移動時間は労働時間に当たらないからね。」どうやら自分に都合の良いことはいくらでも口に出せる性質らしい。原則としてそうらしいというのを過去の判例で見る事ができた。この国はどうかしている。

 

4つ目は製品品質問題だ。当時扱っていた海外製品の品質は日本の製品に比べて良いとは言えなかった。修理対応が発生する率も高かったのである。もちろん修理対応ダイアルもあったし修理部隊も社内・外注ともにあったが、手が回らなくなる場合もある。その場合、一次対応として営業が駆けつけることになっていた。最低限の部品や工具、マニュアルを持って走るのだ。

だが所詮付け焼き刃である。対応がそこで決着しないことの方が多い。単純にエンドユーザーへのパフォーマンスをすることを求められていたのである。要するに「一応来ましたよね、怒らないでくださいね…。」と。

困ったことに修理受付は24時間対応だった。それだけ緊急性が高い対応を問われることもあったのだ。そして修理部隊の手が空かないときは、当然あり得ない時間帯が多い。

深夜0時に携帯が鳴るなんてことはザラだったし、状況次第ではそこからすぐに飛んでいかなければならないケースもあった。

時間的な問題もさることながら、昼は販売店からの脅迫めいた電話、夜は修理対応の電話が頻繁に鳴っていた頃は、電話強迫症とでもいうようなものになっていた。周囲の人間によると、片時たりとも電話は手放さず、時折ぼんやりと画面を見つめていたそうだ。そして電話を投げつけて壊したことは、一度や二度じゃなかった。

「顧客第一主義」とはあらゆる犠牲の上に成り立つものなのだと認識させられたのである。

 

以上の主に4つの要因と通常の営業活動によって、私の生活は仕事に侵されていた。眠る時間もなく、休む時間もなかった。性質の悪い黒魔法にでもかかったかのように私の頭は常に鈍い痛みに覆われ、体はひたすら悲鳴を上げていた。当時を思い出してみても、記憶に色が付いていない。

 

【第四章】マンドラゴラの悲鳴

では、このような生活を続けていた私の体はどうなったかについて語ろう。

ある日、たった3時間の睡眠から無理やり目覚めると体が動かない。力が入らない。腰のあたりがもやもやする感覚だ。腕を使って体を横向きにしようとすると激痛が走る。悲鳴を上げるとともにうろたえる。救急車を呼び、病院へ直行する。医者から告げられたのは、腰の骨がずれている、ということだった。長時間の運転で同じ姿勢を続けることによる圧迫と体力の低下でこうなったことが考えられます、と。通院しながら完治までに半年かかった。「治らないことも多いんですよ。あなたは運が良い。」大きくうなずきはしたが、私は素直には喜べなかった。

 

健康診断では年々数値が悪くなっていった。特に血圧がどんどん上がっていた。食事は家にいる時間がほとんどない中、ほぼ外食やコンビニで済ませていたし、何より睡眠時間が足りない。加えて医者からは何年も不整脈を心配されていた。「レッドカード一歩手前だね。」

 

耳が聞こえなくなる時があった。医者には突発性難聴と診断された。ストレスとはかくも恐ろしいものか。ただ抜本的な解決に向けて動き出すこともできなかった。何も考えられなくなっていた。

 

これも余談だが、【第三章】で述べた時間の無さにもかかわらず、会社の飲み会も実は相当数あった。これも上層部の気まぐれや、会議後の打ち上げ、人の出入りが激しいために頻繁にある歓送迎会という内訳で、ほぼ強制参加だった。

私は元来お酒は好きなほうで時にありえないほどの量を飲んでしまうこともあったが、疲弊しきった状態になってからはほとんどお酒を飲まなくなっていた。慢性的に時間がない為、その後事務所に戻って仕事をすることも多かったし、いつ招集がかかるかわからない状況でもあったからだ。

医者からは、「その状況の中でそのまま大酒を飲み続けていたらあなたの体調は回復不能になっていたかもしれません。そのお酒を飲まなくなったというのは、ひどい状況の中で唯一あなたの命を救ったものかもしれませんね。」と言われた。

仕事が招いた最悪の状況の中、仕事によって最悪の事態を避けることができたということか、笑えない冗談だ。

周りを見回しても似たようなものだった。そして一人、また一人といなくなっていく。誰もが耳で聴くことのできない悲鳴を上げており、それが周りの人間をも巻き込んで殺していく。社員の数こそ変わらないものの全国的に離職率が高く、私が入社してからの5年間で顔ぶれの半数は入れ替わっていた。

 

【第五章】対価と代償

販売店新規立ち上げに成功したことは先に述べたかと思う。その次の期に昇進試験とは名ばかりの面談を経て、私は俗にいう中間管理職に昇進した。人の入れ替わりの激しい職場であった為、単に上が空いたからにほかならない。

その年の年俸は650万円に決まった。同年代ではそこそこの金額だったと思う。

しかし、働く時間が長いということはそれだけ無駄な出費が増えるということなのだ。食べなくていい食事が外食になり高くつく。飲まなくていい酒を自腹で飲まなければならなくなる。出張に行けば特にムダ金が出ていく。弱った自我を保つために自分へのご褒美が頻繁になる。結局可処分所得は変わらないのである。

まして24時間のうち、移動込で平均的に16時間以上働いて、年間の半分は土日も休みがないことを考えれば、最低でも週に90時間ぐらい働いていることになる。時給換算すれば、学生の時やっていた深夜のアルバイトと大して変わらない。

法に定めるところによる労働時間は、1日に8時間で週に40時間を超えないものとなっている。時間外労働に関しては労基法36条に定めるところによる限度が設けられているはずだったが、この時点で私はそのことについて知らなかった。

出来ない者が残業をし、移動中は労働時間ではなく、休日の展示会は義務。

ある種の洗脳である。

精神が弱ってくると罵倒や脅しが体に変調をきたし、体が弱ってくると精神的に無抵抗になる。卵が先か鶏が先か、ではない。同時進行で襲ってくるのだ。

【第3章】【第4章】で述べたとおり、精神と肉体に変調をきたし、治療費や薬代もばかにならない状態が続く。周りも同様に毒され、支店に来た時にいた4人の営業のうち3人は職を辞していた。そして負担が残った者にのしかかる。

今なら少し考えればこれは良くないことだとわかる。積極的に労働基準監督署に訴えて出ようと思うだろう。だがこの時はそんな考えは一切なかった。悪いのは仕事ができない自分であり、仕事は必ず完結させなければいけないものであるという強迫観念しかなかったのだ。

いわば精神の自由と論理的に思考することが奪われた状態。

時間当たりにすればわずかな給料の代償は、会社の精神的奴隷に成り下がることだった。

 

つづく。

 

※登場する個人名は実在しません。

※わずかに脚色しています。